2010年11月28日日曜日

施設係としての助教

4月に異動してからは、助教ではあるが、まるで施設係になったような気分である。

たとえば、こんなことをやっていた。
  • 配電盤のブレーカー交換。発電機を使った停電対応。
  • 蛇口交換。純水製造装置の修理。ドラフトチャンバーの修理。
  • ドアクローザーの修理。戸棚戸車の修理。
  • 高圧ガスの配管。真空ポンプの交換。 
  • 他にも専門的な装置のメンテナンス。
この作業をやること自体は嫌いではない。問題は、研究する時間が減り、労働時間が長くなることにある。 また研究できなければ、研究実績が作れず、上の職位にいくのが難しくなる。他の人にやってもらえば、もっと研究に専念できるのだが。

ということで専任で研究室の設備を管理する人、助手や技官がいてもいい。しかし、大学は冬の時代で、そんな人件費はない。

お金がないなら、学生がやってくれてもいいと思う。ところが、学生はこういう施設補修の仕事はなぜかやらない。まず機器の調子が悪いことに気づかない。仮に気づいたとしても、そのまま放置してしまう。そのセンスは、エンジニアとしては、よくない態度である。そのあたりを訓練させてあげたいけど、このベーシックなセンスは、学習できるのか怪しい。

結局は、今のポジションにいる数年?は、自分でやるしかないか。あと少しで、大体の問題は出尽くして、パターンが類型化すると思う。そしたらもう少しは楽になりそうだ。そんな希望を持っている。

2010年11月3日水曜日

オランダの思い出 自転車

10月の頭にオランダ出張に行ったものの、まとめずに写真を放置していた。オランダで印象に残ったのは、自転車、奇抜さ、自由さ、である。 今回は自転車に焦点を当てたいと思う。

自転車道と車道が分離されているのが、オランダの道路の特徴である。



自転車道だけのところもある。


 交差点で信号を待つ、自転車の集団。朝8時の通勤・通学時間で、自動車よりも自転車の台数の方が多かった。
交差点で待つ集団は、こういうカラクリで待っている。
信号が青になっても、どこを通ったらいいのか、よく分からない。
 風車村でたたずんでいた猫。

2010年10月7日木曜日

イタリア国際会議に続き、東京展示会に出張す

皆様、ご無沙汰しております。イタリアの国際会議に1週間出張した後、東京の展示会に2日間行き、続けてオランダの国際会議に1週間来ています。これだけ出張が続くと、つらいものがあります。

イタリアでは、「ミラノ」と「ジェノバ」を中心に回りました。
  • イタリアでは、イタリア料理ばかりで、最後の方では飽きました。料理に関しては、国際的ではなく、イタリア料理好きでないと、不満がたまってきます。食べるものは、トマトソース、オリーブオイル、薄いピザ、チーズ、パスタ、ワイン、エスプレッソと炭酸ガス入りの水という印象です。生野菜や生魚をあまり食べない文化なのか、ビタミン不足を感じました。
  • 英語はほとんど通じませんでした。イタリア語しか話せない人が普通です。数字もイタリア語で発音しないと、通じません。少し面倒臭いです。
  • 割と現金文化です。クレジットカードはレストラン、スーパー、ホテル以外では、使える箇所は少ないです。クレジットカードを使おうと思って、7日間で200ユーロしか持っていきませんでしたが、それでは足りなくなりました。
  • またイタリアでは、印象派の絵画が少なく、少し物足りませんでした。宗教画が多いです。構図や手法はほとんど同じです。中心に軸があって、対称的に絵を描くようになっています。
  • 物事がゆったりしていて、スーパーの列では、15分並んだりしました。平日の日中でも、広場や海を眺めて、ゆっくり座っている人が多いです。
  • ハイテクはほとんどなく、ローテク、とくにデザインで勝負している感じです。軽薄短小の機器を作るような民族性でないんだと思います。インターネットの回線は遅いです。アメリカや日本のように、ハイテク機器を使いこなしている人はほとんどいません。携帯ゲーム機も街では見かけませんでした。
  • 服はおしゃれな人が多く、歳をとっても、サイズ感があったびしっとした服を着ていたのが、流石といった感じです。
  • 自転車はロードバイク率が高く、乗り物に対する人気を感じさせました。

東京は久しぶり(1ヶ月ぶり)でしたが、都心に滞在していたので、東京の良さを実感しました。東京に住んで、満員電車がなければ、最高です。愛知と違って、欲しいものは大体手に入ります。都心では、ホームセンターやスーパーで手に入る生活用品は、あまりありませんが、それ以外は充実しています。

続く

2010年9月16日木曜日

スルーパスが決まりだした

教授からのパスが多くなり、僕へのスルーパスが決まりだした。教授が仕事をたくさん引き受けるタイプの人で、その下で働く助教は大変だ。引き受けた仕事が、下流に流れてくることになる。

どうしたら楽になるか?
1)教授の引き受ける性格を改めて、仕事を減らしてもらう:こちらは簡単には実現しなそうだ。自分で変えられることではないので。
2)さらに下流に仕事をパスする:この方法の問題点は、学生に細かく指示を出して、つきっきりでやってもらう必要がある点だ。それだとできることは分かっているが、そこまで一緒にやるなら、自分でやった方が早くなる。自立して動ける学生が欲しい。そのような学生を育てるまでに、時間がかかってしまう。
3)6~8割の完成度にする:自分が変えればいいだけだから、これが一番実現しやすそう。完璧を目指さず、合格点をとれるところまでしかやらない(やれない)。

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土曜日からイタリア出張である。

2010年8月25日水曜日

帰省しても,自転車で駆け巡る

今日は少し早めの21:00に帰ったので,Blogの更新をしておこう。

8月15日(日)~19日(木)実家に帰った。帰省の方法は,自動車。なぜならロードバイクを運ぶためである。今回帰省したときに,やりたかったことは,近所の周りを,ロードバイクで駆け巡るということ。

そして久しぶりに,自転車で実家の近くを駆け巡った。風を切って,ペダルを漕いで進む感覚は,高校のとき以来。昔見た景色を見る。肉体の感覚が同じで,乗るごとに昔の感覚を思い出す。

10年近く経ったけど,高校生の時に比べて,体力は落ちていない。それどころか,増していると思う。高校時代に,高校までの通学に20分かかったが,今回は10分で行けた。

せっかく高校の周りを通ったので,高校周辺の写真を撮っておいた。ここにあるのは,周辺にある,道の写真2枚である。これは他の人が見ても,単なる田んぼだ。しかし,自分が見ると,それなりの思い出がある。この道は,自転車に乗りながら,誰かと話しながら,通り過ぎていった。


この道が,10年経っても,変化がなかったことに驚いている。日本の田園風景はもうそんなに変わらないかな。。。ここらが切り開かれるエネルギーがあるとは思えない。

他にも,いろいろなところへ行ったので,時間があれば,更新する予定。

2010年8月14日土曜日

停電がありつつも,休日に突入

本格的に働くのは,今日(8/13)まで。今日も大学に行ったが,働いている人は普段の1/3程度。学生は夏休みモード。

食堂,売店も休みで困った。自販機以外に食料はないため,昼は大学外に車で出かけて,食べることになった。浜松餃子とつけ麺のセット(884円)を食べた。これは少し量が多かった。

明日から3日間停電なので,食料庫を空の状態にした。冷蔵庫に残っていた牛乳を500 mLぐらい飲み干した。僕は乳糖不耐症のようで,お腹の状態が悪くなった。普段まとめて,牛乳を飲むことがないのに,大量に消費したのは問題だった。

明日は休日にも関わらず,停電があるため,実験材料が入っている冷蔵庫を発電機につながないといけない。基本的には学生にやってもらう。しかし,一度システムの動作確認に,大学に行く必要がある。こんなに長い停電は,おかしさを感じる。来年はもっと短くしてもらいたいもんだ。

2010年8月8日日曜日

サイクリング 静岡県湖西市、浜名湖、豊田佐吉記念館

自転車に乗って、静岡県湖西市まで出かけた。今日の天候は曇りで、暑くならならず、肉体的に楽だった。ところで湖西市は、浜名湖の西にあり、愛知県豊橋市と静岡県浜松市の間にある市である。
湖西市(こさいし)は、静岡県の最も西に位置する市である。旧浜名郡の一部で、1972年市制施行。自動車工業、農業、トヨタグループの始祖の町として有名。(Wikipediaから転載)
またスズキの湖西工場を始め、メーカーの工場が多く、お金がある自治体である。住んでいるところに比べて、グラウンドや体育館が立派なのが、よく分かる。

湖西市から見た浜名湖 本日は曇り

道中、愛知県道・静岡県道3号豊橋湖西線を走っていると、「豊田佐吉記念館」の看板が目に入った。特に計画をしていたわけではなかったが、寄り道をすることにした。ここで半年前に読んだトヨタ伝という本に、豊田佐吉記念館の話が書いてあったのを思い出した。トヨタグループの社員は、ここに研修に来るらしい。
豊田佐吉記念館は、トヨタグループ創業者 豊田佐吉の生誕120年を記念して、佐吉の生誕の地に1988年10月に開館。佐吉の生家を中心に、佐吉が発明した数々の織機やゆかりの品々を展示。自動織機の発明にとどまらず、自動車をはじめとする日本の産業の発展に努力した、佐吉の志、情熱を感じ、親しんでいただけます。(http://www.toyota.co.jp/jp/about_toyota/facility/11.html)
朝9時近くに、中に入ってみた。
豊田佐吉記念館 入口

母屋

展示室内にある豊田佐吉23歳のときに作った「豊田式木製人力織機」。館内には4,5台の織機が展示されている。23歳でこんな機械を作ってしまうのだから凄い。


裏山も見学でき、展望台もある


展望台から眺めた湖西市と浜名湖


豊田佐吉生家


周辺の景色 田園風景


近くでは、くわがたとカブトムシも売ってる 5,6匹で500円だった

志が高ければ、道はある程度、切り開かれるという好例を見た。ただしモチベーションが高い人が湖西市に産まれたのが不思議だ。豊田佐吉は、なぜこの湖西市から、世界を目指そうとしたのか、謎は解けなかった。そのような人は、どうやったら、産み出せるのだろうか。

この豊田佐吉記念館は、最寄りのJR鷲津駅から2kmあり、行きにくい場所にあるが、無料で、綺麗に整備されているので、寄り道で行くのはお薦めである。織機は工学を学んだ人には興味深いと思う。

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2010年7月27日火曜日

守備範囲広がる

仕事の守備範囲が広くなって、割と忙しい状態になっている。というわけで、Blogの更新もさぼり気味だ。

学生やポスドクのときは、自分の研究を中心に考えていて、とくに問題はなかった。(周りのことを考える学生だったら、もっとよかったけれど。)その分、自分の研究は深く、迅速に進んだ。また自己中心的に進める時期がないと、大研究はできないと思う。

翻って現在、自分だけで実験をする時間はない。実験をするときは、教育も兼ねて、学生と一緒に研究を進める。原理をゆっくり説明しながらやるので、進みはのろのろになる。大学では、研究の進展よりも、学生の成長に喜びを見出さないと、やっていけないところがある。研究を迅速に進めたいなら、教育義務が少ない研究所がいいだろう。

また研究室の学生から、レスキューを求められると、教員である以上、一緒に考えたり、実験したりせざるを得ない。相手が少ないときはいいが、それが10人にを超えると、求められる知識の量が増え、範囲も広くなる。聞かれて、分かりませんでは、教員のプライドが許さない。そうこうして、勉強する量も膨大になり、忙しくなる。諦めたら、楽にはなるが、あんまりいい選択肢には思えない。

2010年7月10日土曜日

自動車ではなく自転車で海に行く

せっかくの休みなので、海を見ようと思って、自転車で海岸を目指した。この日、コンディションはイマイチだった。向かい風で、空気抵抗が大きかった。湿度と温度ともに高く、体温が下がりにくかった。曇りで、日差しが弱いのが救いだったが、30分も乗ると、ばてばてになった。

出発して1時間ほどで海岸に着くと、そこには海の家も何もなく、単に砂浜があった。ウミガメの産卵地であり、保護されているようだ。看板には、「砂浜への車の乗り入れも禁止」と書いてあった。

男のサーファーが約10人いた。彼らは一様に、黒いウェットスーツを着て、サーフボードを持っていた。また周りには人数に合わせた分の車が駐車されていた。そんな海岸に自転車で行ったのは、場違い、ではあった。サーファーは僕を見て、「何をしに来たのか?」と思っただろう。

海は単に見に行っただけなので、写真を撮って、満足して、帰った。滞在時間は5分少々。自転車に海風を当てると、鉄のサビが促進されるので、長期滞在は嫌なのである。海も見たいが、自転車を守ることの方が優先される。

自転車で行くと疲れは溜まるものの、いつもと違う空気が味わえるいい場所である。また時間があるときに来ようと思う。

2010年7月9日金曜日

代休というものを初めて取る

6月の土日に出張に行った。休日に働いた分、代休を取るというルールがある。このように研究者は、法に守られた労働者でもある。

そして明日代休を取ることにした。これを守られているというべきか、自由度がないというべきか。働きたいときに、働けない制限がある。今は、働いて成果を出したいという思いが強い。その後まとめて休みたいと思っているのだけれど。

2010年7月8日木曜日

入試関係の業務に初めて携わる

入試関係の業務に初めて携わった。これが一番大学の教員らしい仕事だと思った。入試業務は、研究員には回ってこない仕事なので。しかし重要な仕事だけど、研究には直接関係がないところが、悲しいところである。

2010年7月3日土曜日

居室環境の整備

同じ部屋を3人の助教で使っている。環境に満足できていない部分があり、最近少し環境を整備した。今回はその部屋の整備の話をしたいと思う。

(1)冷蔵庫
まず部屋には冷蔵庫がなく、冷たい飲み物や腐りやすい物が保存できなかった。そこで容量130リットルの東芝冷蔵庫をもらってきた。これは母親と妹が、車に乗って、実家から大学まで運んできたものだ。冷蔵庫の中はまだ汚れが付いていた。スポンジと洗剤を使い、プラスチックの仕切り板も外して、拭き掃除をした。そして満足のいく清潔な庫内に仕上がった。動かしてみると、冷却性能は申し分ないようだった。

(2)レターケース処分
冷蔵庫と入れ替わりに、部屋にあった誰も使っていない高さ1メートル、横幅も1メートルほどのレターケースを処分した。大体15段3列ぐらいあった。一人で台車に乗せて、処分場まで運んだ。残念ながら、冷蔵庫とレターケースはスペース的に同居できなかったし、近くに引き取り手もいなかった。これは大量の書類を保管する部屋には必要であろうが、単なる助教の部屋には、巨大なレターケースは役不足だった。

(3)小型扇風機導入

卓上の小型扇風機を導入した。なぜならエアコンの設定温度が、高めの設定である27℃になっているからだ。3人部屋なので、好き勝手に設定温度が決められない。節電のためには、高い方がいいのだろうけど、自分としては設定を25℃ぐらいにした方が、疲労が少なく働ける。そこで体感温度を低くするために、直径約15cmの卓上扇風機を机の上に置いた。これで多少は涼しく感じられている。

これ以外にも整備することは複数ある。まず床が汚いので、拭き掃除をして、ワックスをかける。4つしか回線が接続できなハブを買い換える。ロッカーのサビを落とす。壁の塗装を塗り直す。

精神論よりも物を具体的に動かす。何もせず、気合いだけでは、物は冷えない、場所は広くならず、涼しくも感じない。物理的に働きやすい環境を作ると、さらにやる気が出てくるものだ。

2010年6月29日火曜日

隣の部屋に越してきた住人

現在、いわゆる集合住宅に住んでいる。隣の部屋は3ヶ月空いていた。以前は、ブラジル人家族が住んでいた。隣に人がいないと、気兼ねが減り、気楽だった。

ここに来て、入居者が入っていたようだ。3,4日前ぐらいから、玄関口に「盛り塩」がしてあるのが最初の変化で、人が入るのかな?と感づいた。その盛り塩は、ワイングラスのような容器に、塩が詰め込まれた形態をしている。これ、お店で見ることはよくあるが、集合住宅の玄関に置いてあるのは、初めて見た。

今日の朝に、40歳近い男性と共同廊下で擦れ違い、その男性が部屋に入っていくのを見たので、本格的に入居したのが分かった。ただ、こちらから挨拶しても、むすっとしていて、なんだか無愛想な男の人だった。いつの間に、荷物を運び入れたのだろう?荷物はなかったのだろうか?

そして、隣の僕の家に、一向に挨拶に来ない点には、疑問を感じている。盛り塩を置いて、何かを信じるのは、自由にやってもらっていい。信仰は自由で、制限するつもりはない。ただし重要度としては、挨拶をして、周りの人とうまく生きていく方が高いと思うのだが。まず挨拶した方が、幸せを呼び込むはずだ。

2010年6月23日水曜日

約3週間ぶりの更新

珍しい朝更新。

あまり書いている余裕がなく、今まで、約3週間書かなかった。その間、色々あったとしか書きようがない。研究の面では、環境整備が一段落付いた感がある。これから本格再始動かな。

今から学科の会議に出るため、大学に向かう。朝一からやることは会議である。

2010年6月2日水曜日

国の研究所の見学 5/31

岡崎にある国の研究所を見学してきた。行ったのは、岡崎にある3研究所(分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所)の中の一つである。

見学前、昼食は「かっぱ寿司」に行った。12時過ぎに到着すると、なんと20分待つことになった。年配の方や、主婦、小学生が多かった。サラリーマン風の人は、2組ぐらいだった。土日だけでなく、平日の回転寿司も混むことを知らなかった。1皿90円で、7皿食べた。

行ってみた国の研究所、同じ研究をする場所だけれど、やはり大学とは違う。基本的には学生はおらず、教育のデューティーも大学より少なそうだ。博士号を持った研究員(プロ)以上が主戦力で、研究環境も違う。プロが多いと、研究環境は秩序立つ。学生はブラウン運動してて、動きはランダムだ。学生はプロになる前段階だなあ。大学では、教育と同時にうまく研究するのが、腕の見せ所ではある。

2010年6月1日火曜日

自転車パンク修理 5/30

ロードバイクの前輪がパンクしていた。平日は直す時間がなく、日曜に修理を行った。

まずパンク修理セットをホームセンターで買った。安い198円のものを使った。ホームセンターに行ったついでに、手が汚れないように、手のひら側がゴムで覆われた、作業用手袋を買った。手袋は、綺麗に作業するには、大事な道具である。

さてタイヤを外して、チューブを見ると、バルブの裏側あたりに、見えるサイズの穴があった。まずそこをパッチで塞いで、再度空気を入れた。6気圧ぐらいまで順調に入った。その後、すぐに急にチューブが破裂した。風船が割れた音が響き渡った。ここでチューブがパンクした理由は分からなかった。

またチューブを見ると、塞いだ箇所の近くに、約5 mmの亀裂があった。そこをさらに塞いだ。それで空気を入れたが、入らなかった。もう一つ塞いでいない穴があった。そこに3箇所目のパッチを貼った。これが最後のパッチで済んだ。その後は7気圧にしても、異常はなく、快適に走れるようになった。

2010年5月31日月曜日

中学の同窓会 5/29

東京からとんぼ返りした僕は、次の朝フィットネスクラブで運動して、夜は中学校の同窓会に行ってきた。

参加者は40人ぐらい。1学年180人はいたので、割と少ない参加率だと思う。最後に会ったのが、15歳のとき、という人が半数以上だった。男女比で言えば、僅かに女性比が高かった。

当初、嫌な思いをするかと心配して、出席をためらっていた。それは杞憂となった。実際は、みんなの近況が分かって、大変よかった。

女性陣は十中八九、きれいになっていた。見分けがつかなかったぐらいに。一方で、男は顔が変わっていないやつがほとんどだ。僕も、顔が変わっていない部類に入るかもしれない。
二次会もあったが、出張で疲れていたため、一次会だけで帰った。無理をせず体力が回復できたという意味ではよかった。仲がよくならなかったという意味ではわるかった。一次会だけでは、40人と詳しく話すのには時間不足だったので。

以前は同窓会に行かないつもりだった。今回行ってみて、参加するのもいいと思うようになった。ただし「同窓会で見栄を張れるような生き方を目指すようになる」ことはあり、その影響はどうやっても消せない。ここではいくつか写真を撮った。

東京出張 5/26~5/28

古巣の研究室に3日間出張してきた。「共同研究の打ち合わせ」と「研究の引継」を行った。朝から晩まで、大学内で予定がつまっていたので、東京で遊んでいる暇はなかった。初日の午前中には、東京入りして、最終日の夜まで東京にいた。

2ヶ月ぶりの東京の感想は、一言で言うと、「やっぱり混んでいた」。密集度が、愛知とは段違いだった。今の愛知の環境は、僕をのんびりさせる方向に作用しているみたいだ。

人々
さて知己の人と2ヶ月ぶりに会った。初見は、修士1年の新入生だけだった。あと2,3年は、研究室に知っている人がたくさんいるから、訪問しやすい。2ヶ月ぶりに会っても、さすがに皆、目に見えた変化は少ないようだ。いやー、懐かしかった。

実験室の変化
面白いことに、主に使っていた2つの実験室が様変わりしていた。1つ目のクリーンルームはドラフトが増えて、使いやすくなった。エアーシャワーが導入されたせいか、クリーン度も上がっていた。2つ目のバイオ実験室はすっきりしていた。自分の実験装置が消えたのも、主要因だと思う。

宿泊先
宿泊先は渋谷にした。今回は利便性を最優先にして、多少高くてもよしとした。学生のときの東京での宿泊は、価格が最優先だった。だから宿泊費が安い、北側か東側に泊まっていた。池袋、日本橋、南千住とか。

食事
学食x4、ホテルの朝食x2、立食パーティーx1、ハンバーグ屋x1。大学内にいて、学食が多かったのが、今回の出張の特徴だ。バリエーションは少ないけれど、食事の時間のほとんどが話す時間に使えてよかった。

旅程
水曜日朝8時ぐらいの新幹線に乗った。席は空いていて、非常にリラックスして、移動できた。午前中には、東京の大学に到着した。

金曜日の夜に新幹線自由席に乗って帰った。自由席にしたのは、節約のためだ。金曜夜の下り電車は、混むらしいと聞いて、対策を打った。品川から帰るのが最短だが、座ることを考え、始発駅の東京駅から乗った。すると、東京駅からは乗客全員が座れた。しかし品川からだと、2/3ぐらいは座れなかった。品川から、通路に人が立った。指定席は空いていたから、多少お金を出しても、指定席に座る方がよかったかなあ。自分の席の横に人が立っていると、リラックスできないので。

自宅に11時ぐらいに着いて、出張は終わった。知っているところの移動だけだったから、写真は一枚も撮らなかった!!

2010年5月23日日曜日

ロードバイクのブレーキパッド交換をしてもらう

ロードバイクの前後ブレーキで、ブレーキ鳴きがすることに気がついた。自転車は止まるものの、音がうるさくて、我慢できない。ゴムが劣化して、硬化したのが原因だ。雨が降る中、「サイクルベースあさひ」でブレーキパッドを交換してきた。

以前タイヤとホイールを交換するときに、対応してくれた人がいた。そのおかげで、ブレーキパッドを交換するのに、ブレーキパッドの部品代だけで済んだ。735円x2個で、1470円だった。これでブレーキ鳴きは収まった。

メンテナンスに関しては、「自動車」よりも「自転車」の方が中身が見えやすく、面白い。両方乗っていると、比較することで、車のメカニズムがよく分かるので、エンジニア的な喜びがある。

2010年5月22日土曜日

アルコールアレルギーなるもの

お酒には強くない。お酒を飲んだときは、すぐに顔が赤らむ。そして飲んだ次の日には、手に「じんましん」が出てくる。赤い斑点のようなものが2,3日消えない。目立っていて、気になるので、健康診断の時に、医者(内科医)に聞いた。説明に都合がいいことに、健康診断時に、じんましんが出ていた。

アルコールに対するアレルギーということらしい。

さらなる証拠が今週あった。火曜日、消毒用アルコールが、たまたま右手だけについた。すると、次の日に、アルコールがついた右手だけに、じんましんが出た。左手には何も現れなかった。じんましんが出るのは、体調が悪いのが理由かと思っていたが、単なるアルコールアレルギーだった。アルコールの取り扱いには、注意を払わなくてはいけない。

2010年5月19日水曜日

シティサイクル・ロードバイク 2台体制の自転車生活

自分の動力で進む自転車が好きである。愛知に来てから、「シティサイクル」と「ロードバイク」の2台体制で運用している。2台とも、こちらに来て、購入したものだ。

シティサイクルは近場の買い物に使う。カゴがあるのが大きな利点だ。ライト、スタンド、鍵は自転車に備え付けであり、近所に行くのに向いている。

ロードバイクは通勤に使う。スタンドも鍵も自転車にはついていない。走りの性能を残して、なくても困らないものは省く。その結果、軽く、動きはスムーズで、速い。

大学まで自宅から8kmの道のりがある。行きは上り坂で、帰りは下り坂になる。だから行きは結構辛い。シティサイクルだと、行きは30分、帰りは20分かかる。

ところがロードバイクに乗ってみて、その速さに驚いた。同じ道のりで、行きは20分、帰りは15分である。行きが圧倒的に速い。車重が少なくて、登りで持ち上げる重さは少ない。こうなると、かかる時間は、自動車とほとんど変わらない。自動車は意外に遅い。ロードバイクはあまりに速い。

このロードバイク、オークションで購入したものである。家に届いたときは、整備されていなかった。未整備の状態で乗っていたら、2日目に前輪のタイヤがバーストして、落車した。タイヤが古くなって、亀裂が入っていたところに、高圧の空気を入れて走っていたからである。タイヤは破裂し、修理は不可能になった。「チューブラータイヤ」という形式で、タイヤとチューブが一体構造になっているので、両方入れ替える必要があった。

本格的なメンテナンスが必要と判断し、近くのサイクルベースあさひに頼んだ。そして前後輪のホイール、チューブ、タイヤを新調した。一式で2万円強かかった。性能の割に安いと思うのだけど、見る人が見たら、道楽でしかない。同じ金額を出せば、シティサイクルがもう一台買えるのだから。しかしロードバイクの走る感覚は、シティサイクルでは味わえない。価格分の楽しみはある。

2010年5月14日金曜日

気長に芽が出るまで待つ日々

研究室の学生が、自発的に「実験装置を運ぶ」と言い出したので、教育の観点から任せることにした。当初の予定では、4月中にやるという話だった。ところが月曜日の段階でも、実行に移されていなかった。

なので、さすがに火曜日に再度話をした。すると、その学生は「今週中にやる」と言った。しかし木曜日の夕方に、再度話を聞いてみると、まだやっていないし、計画も立てていないとのこと。学生の計画力・実行力の発揮が望まれる。

僕だったら1時間以内に片付けて、すぐ終わるのだけど、「段取りをして、人を手配して、指揮する訓練」を学生に積ませたいから、自分ではやらない。学生に任せ、実行まで見届けるのは、長期戦になり、忍耐力がいる。前いた研究室の教授が、「自分でやった方が早いけど、あえて学生にやらせる」と何度も言っていたことを、実感する毎日である。自分でやってしまうと、訓練にならない。気長に待って、やり切ったら学生を誉めようと思う。

2010年5月12日水曜日

Blogのタイトルを「のんほい生活」と変えた

変えるといっていたBlogのタイトルを変えた。愛知に引っ越して来たので、以前のタイトルである「その後の東京生活」というのは使えなくなった。愛知に住んだからには、愛知らしい名前にしたいと思って、「のんほい生活」と変えた。「のんほい」は愛知に由来がある言葉で、東三河の方言である。語感だけで判断すると、のんびりした雰囲気に聞こえるけれど、東京にいたころより、自分がのんびり過ごしているとは思っていない。

2010年5月10日月曜日

若手の会に参加した

先週の金曜日の夜に、「若手の会」なるものに、初めて参加してきた。若手の会は、自称若手の人が、集まってやる飲み会だ。下は28歳の助教(私)から、上は45歳の教授までいた。教員だけでなくて、事務室の人や秘書さんも参加した。合計で約30人。普段会わない人たちとも話せてよかった。

民間に比べて、大学の先生の給料は段違いに低いこと。
研究費はとりあえず応募すること。
などを先輩の先生たちから学んだ。

同期で、同じ大学出身の助教を発見したことは、驚きだった。正直、経験の差からか、あまり同年代には見えなかったけど…。たまにはこういう会に出ると、新しい発見がたくさんあって、面白い。

2010年5月3日月曜日

ゴールデンウィーク中のスーパーでの販促

昨日、ピアゴというスーパーで歩いていると、大きく目立つ人形を見かけた。近づいてみると、「スーちゃん」という名古屋では有名なキャラクターだった。スーパーでの販促にスーちゃんが出てきてた、ということらしい。

(スガキヤは名古屋で有名なラーメンチェーン店。そのスガキヤは、スーパーでも同じ味付けの麺類を販売している。)

他にも”はごろもフーズ”、”カルビー”がおまけを配り、”亀田製菓”が試食をやっていた。はごろもフーズは、まぐろ/かつおの風船を配っていた。

また大道芸人が皿回しなんかをやっていた。ギャラリーは5人ぐらいで、わびしかった。観客がいなくても、盛り上げようというその心意気、いいと思う。応援したい。

スーちゃん

はごろもの缶詰と風船

実家に帰り、「珈琲屋 らんぷ」に行く

実家に帰ってきて、喫茶店に行った。「珈琲屋 らんぷ」という店で、チェーン店である。外観は擬洋風建築で、よくある喫茶店とは差別化してある。

飲んだのはコーヒーのらんぷレギュラー350円。コーヒーの泡だちがよくて、味に立体感ができていた。それは自分で淹れても出てこない泡で、どうやって作っているのか気になった。

食べたのはチョコレートワッフル300円。ワッフルの上に、バニラアイスとクリームがのっている。さらにチョコレートで味をつけてある。値段が安いのに、ボリュームが結構ある。一人で間食として食べるのは、カロリー的に厳しいものがある。

モーニングサービスが昼12時まであるようなので、朝行くと、もっとお得だろうな。



2010年5月1日土曜日

大学にいる”しろねこ”

大学の中に野良の”しろねこ”がいる。講義棟や福利厚生棟のソファを見つけて、寝ていたりする。天気がいい日は外で寝ている。東京では無かった光景である。大学に猫を放し飼いにして、問題にもならないのは、おおらかな大学な証拠だ。


2010年4月29日木曜日

割と忙しい日、研究時間が足りない

連休直前の水曜日、研究時間は少なかった。
  • 朝から学科の会議があって、9時から12時まであった。決める項目は盛りだくさんで、大変だった。どちらかというと、入試だとか教育の話が主だった。研究には直接関係ない。
  • 午後1時から午後4時までは、学部3年生の学生実験だった。教育するのは面白いけど、できあがった系をずっと触っていても、研究にはならない。
  • 午後6時からは学部3年生と教員との懇談会だった。懇談会も大事というのは分かるが、研究ではない。(余談: 懇談会のときに、3人の先生に、学生と間違われた。顔の認知度の低さと若く見られることに驚く)
その合間にちょっとした仕事をこなしていく。日中にまとまった時間がなく、がっつりと研究することはできない。

忙しくしている間に、ゴールデンウィークに突入してしまう。働き始めて約1ヶ月が経つ。この慌ただしく過ぎる日々の中で、研究力を上げていくのが今の重大テーマだ。

2010年4月25日日曜日

研究費申請書を書いている最中

科学研究費補助金(研究活動スタート支援)という研究費に応募しようと思っているので、今週末は週末に申請書を書いた。学内締切は今月末まで。大筋はできあがったけど、まだ完成度が足りない。あと一週間で仕上げないと。

今は助走の段階。設備もそろっていない、自分の研究費もなく、講習会も受けきっていない。物が揃って、飛び上がるまでは、半年から1年。それから安定して成果を出せる段階までは、2,3年かかりそうだ。なかなか先は長い。

2010年4月21日水曜日

自動車を買い、その諸経費・維持費に驚く

今住んでいるところは、公共交通機関が発達していないので、自動車を買った。中古のフィット(ホンダ)を買った。価格は、61万円だった。

フィットにした理由はいくつかある。燃費がいいことを含め維持費が安い;荷物がたくさん積める;車の形が気に入った。

 
車の車両価格は、窓に貼ってあって、よく見えるけど、実際にかかる総額は表示されていないことが多い。見積をとって、ようやく総額が分かる仕組みになっている。車両の価格以外にも、諸経費が多くかかってくる。車検がない車だと、車両価格以外に、諸経費で約20万円かかるのが一般的だ。

車を持つと、いろいろなものが収奪されていく。僕の場合は、車一台持つのに、1年で20万円は払う必要がある。
  • 自動車保険の額が一番大きく、1年で10万円近く支払っている。最初は6等級から始まるので、結構高くつく。
  • 駐車場が次に高くて、月に5千円。まあこれは仕方ないかな。
  • 1年に1回2万円を超える自動車税を払う。
  • 取得時には、車の車庫証明を取る必要があって、警察署に平日に行かないといけない。これは依頼するので、1万円以上かかる。
  • 名義変更を陸運局でやる必要があるが、これも平日にしかいけない。従って、これも依頼する必要が出てきて、1万円以上かかる。
  • ガソリンも必要で、そのときにまた税金を払っている。この税金は何に使われているのか、イマイチよく分からない。
総じて、手がかかるやつを持ったという印象だ。気がかりが増えた。持たないで済むなら、持たないにこしたことはない。

自動車に比べて、自転車は気楽だ。自転車に乗ったり、取得したりするのに、税金(消費税除く)はかからないので、改めて自転車の利点を感じた。ガソリンもいらないので、走るのにお金はいらない。身軽に生きたいなら、やっぱり自転車でしょうね。

車は大変だ。

2010年4月10日土曜日

新歓は2次会、午前1時まで続いた

この前の木曜日、僕と新しく配属された学生への新歓が開かれた。夜7時に始まった。ターミナル駅近くの居酒屋に行った。僕は大学から30分かけて自転車でたどり着いた。ちなみにバスで行っても駅まで25分かかる。

みんな飲める人が多かったので、がぶがぶ飲んでいた。僕はあまり飲めないので、いつものようにちびちびやっていた。

体育会系の学生が多く、いちいちビールを注ぎに来るが、それに付き合って飲むのは不可能だ。このビールを注ぐ儀式は、飲める人にはプラスの意味で、飲めない僕にとってはマイナスの意味となる。礼儀のようで、礼儀でない。不可思議なアジア圏の文化の一つだと思う。

挨拶は2回させられた。年を重ねる毎に、話す機会が多くなっていく。僕なんかは、人前で話すのが、苦手だったんだが、やる内に普通にこなせるようになった。あらかじめネタを仕込んでおけば、割と話せるもんである。

1次会の参加者が30人で、2次会の参加者が25人もいた。今いる研究室は、2次会に行くのが、普通にあるらしい。飲めない僕にとっては、あまり好ましくない状況である。そして2次会は午前1時まで続いた。

方向が近い人を2人集めて、家まではタクシーで帰った。2人を降ろしていって、自分が最後に料金を支払ったら、2160円もした。タクシーで帰ると高くつく。節約することを考えると、終電の前までに飲み会を終わって、電車で帰るのが、よい気がする。

僕は次の日も、朝9時から働いた。学生は昼から出てきた人もいるらしい。酒に飲まれて、やりたいことの本質を見失ってはいけないと思う。飲んで騒ぐのが本質の人もいるけれど。

2010年4月9日金曜日

同い年の秘書さんに学部4年生と勘違いされる

知り合いの秘書Aさんに、秘書Bさんを新たに紹介してもらったときの話。

まずAさんはこう切り出して、Bさんに僕を紹介した。
「新しく来られた…」
 すると、秘書Bさんは、
「四年生の?」
と言って、最初、僕を学部4年生だと勘違いしていた。

僕は面白がって、
「そうです。4年生の○○です」
と悪のりして、自己紹介した。
Bさんはそれで納得した顔で、Aさんは困惑した顔になった。そのギャップがたまらない。

自己紹介だから、このまま訂正しないのは、まずいので、続けて、
「4年生じゃないんです。修士1年です」
と言っておいた。それでもBさんは信じていたようだ。
徐々に修士2年、博士の学生、と徐々に年齢を上げていった。そして最終的に博士の学生でもないんですとなって、実は助教ですと伝えた。

Bさんには、「若く見えますねー。何歳ですか?」と聞かれたので、28歳と答えた。

そしたらその秘書Bさんは、私も28歳だと、打ち明けた。なんと同い年じゃないか。僕は同い年の秘書さんに、学部4年生(22歳)と思われるとは思ってもみなかった。

昔から老け顔だと言われ、実年齢よりも高く見られてきたが、ここに来て年齢よりも若く見られるようになった。徐々に若返っているような気すらする。運動を継続してやるようになったのが、若返りの分岐点だったな。

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2010年4月7日水曜日

ついに先生になる

今年度から、ついに助教(先生)になった。今のところ、学生と間違われること5回なので、まだまだ威厳がないのだと思われる。年上の事務員の方から、「○○先生」と言われるのは、自分の中で違和感がある。

そして着任後の4月1日からフル稼働して働いたので、あまり余裕がなかった。着任してすぐに、総額1億円弱の大型研究費(今日締切)を申請すると教授に言われた。なので今日までは、[研究計画の作成]と[研究経費の見積]をしていた。どうやら、やってきた研究室は相当忙しそうだ。

教員になると、研究員の頃よりも、仕事の幅がグンと広くなるので驚いた。一人の時間が減って、人と折衝する時間が増えた。まず教員、事務員、研究室学生、学部生と接する時間が増えた。教員会議、学生へのガイダンス、予算申請、経費処理が増え、日中は人に時間を奪われ、研究に使える時間は減る。人が少ない朝10時前や夜7時以降が自分の時間となる。研究に力を注ぎたい場合は、もう1,2年は研究員でもよかった気がする。

よい意味では、権限が大幅に増大したので、自分の意向を反映させやすくなった。一研究員では、研究室の方向性に与える影響は少なかったが、教員となると方向を変えやすい。そして学生も教員の言うことを聞きやすい。また事務の人も協力的になった。総じて、自分のやりたいことを人にやってもらいやすくなった。

総じて、助教は、プレイングマネージャーって感じかな。

色々なことがあったのだが、あまり書く暇がなかった。余裕があるときに、面白い出来事を書いていきたい。

2010年3月30日火曜日

ぎっくり腰の顛末記(6)全快

ぎっくり腰に関しては、1週間経つと、痛みをほとんど感じなくなった。日常生活以外の運動は止めて、休養につとめた。痛みを感じる場面は、長時間同じ姿勢で座った後に、立ち上がるときだけだった。電車で30分座った後に、立ち上がると、腰が痛くて、吊革を持たないと姿勢が維持できなかった。

現在2週間経ち、痛みも違和感も全くなくなり、全快したことを感じている。当面は腰に気を遣いながら、有酸素運動を行う予定で、徐々に運動強度を高めていきたい。ただ引っ越してきて間がないため、どこで運動をしていいのか、今は見当が付かないが。

愛知に引越して、新生活のスタートを切る

3月27日に東京を離れ、愛知に引っ越した。実家が愛知なので、また愛知!という思いがある。

東京では、計3年8ヶ月[4年-4ヶ月(ボストンにいた)]生活した。あの密集生活はいい経験になった。利便性は高いものの、人口密度が高いせいで、ある種の息苦しさがあったのは否めない。一人当たりの面積は少なく、競争は激しく、生き馬の目を抜くように生活してきた。

久しぶりの愛知は、ゆったりとしているような感じを受けた。東京の経験を踏まえつつ、愛知と東京を対比させることで、見えてくるものもある。


さて今は月・火・水と有給を取って、次の生活の準備をしている。引越して3日目を迎え、同時進行のプロセスが減って、複雑度が減ってきた。ようやく事態は沈静化してきた。


これまでに生活面では退去、引越、入居があった。仕事面でも学会発表や会議の準備があった。小さいことでも、確認の連絡や日程調整の連絡が来て、仕事は中断された。さらに同時進行に数十のプロセスが進み、頭のメモリがそれらを把握することに使われた。そうなると腰を据え、集中して研究をすることができなくなった。やはり落ち着いていないと、まとまった一塊の研究ができない、と思いを新たにした。


4月1日から次の職場で働き始める。今後は再度落ち着いて、まとまった研究をやりたい。今後3~5年以内に、まとまった仕事を世の中に提案したいものだ。

2010年3月22日月曜日

ぎっくり腰の顛末記(5)退院後以降の回復

入院2日目に、なんとか歩ける状態で退院してきた。僕の場合、歩く速さは以下のように回復した。 通常通りの速さで歩けるまで、1週間ぐらいかかるようだ。ぎっくり腰はすぐには治らない。

歩く速さ推移
  • 1日目(火):0%
  • 2日目(水):10%
  • 3日目(木):20%
  • 4日目(金):50%
  • 5日目(土):80%
  • 6日目(日):90%
詳しい病状経過
3日目
近所の回転寿司まで、いつもの5倍遅いスピードで歩いた。併走する高齢の方にも抜かれていく始末だった。遅いけれど、数百メートルの歩行ができて嬉しかった。
 
4日目
学会発表をするために、電車に乗って、都内まで出かけた。発表を2件やり、質問を5つほどして、帰った。立っている状態、座っている状態、続けるだけなら、あまり苦にならなくなった。しかしこの状態でも、道で歩く人よりも歩行が遅かった。朝、忙しそうに動く人たちに、どんどん追い抜かれた。夜は自転車にも乗ってみた。シティサイクルなら、腰に負荷がなかったので、普通に乗れた。
 
5日目
1キロ以上歩き、歩行速度は通常とほとんど変わらなくなった。状態はかなり楽になった。 階段を上り下りするときに、腰に緊張感みたいなものがあってとれない。
 
6日目
事務処理をしに、大学の研究室へ向かった。軽い荷物を運べるようになって、軽く走れるようにもなった。しかし重い荷物を運ぶのは無理みたいだ。腰に負担があるようで、腰にヒビが入る感覚を覚える。電車の網棚のものをとるときには痛みがある。姿勢も大事のようだ。

そして今現在、7日目の朝だが、大きな不調はなさそうだ。重い荷物を持つのを避ければ、ほとんど日常と変わらない生活が送れそうになっている。

ぎっくり腰の顛末記も5話目になった。そろそろ最終回かな。

2010年3月20日土曜日

ぎっくり腰の顛末記(4)入院2日目 急激に病状が回復し、退院に至る

入院2日目(水曜日)になって、劇的な改善があった。途中、立ち上がろうとするときには、強い痛みが走るものの、かなり痛みが引いた。そして歩いてトイレに行けるまでになった。こうなるとかなり通常の生活に近づいてくる。だが立ち続けるのは、依然つらかった。

回復力はかなり早い方だと思われる。腰が弱っても、違う部分の強い筋力が、腰をサポートして動き回れた、と推測している。

退院したいと思い立った。その理由は3つ。1)自宅でインターネットに接続して、仕事を再開したい。2)入院費もかかっているはずで、できるだけ早く退院した方が医療費を節約したい。病院の利点は、動けない患者をサポートできる点にあった。今は動けない人へのサポートも必要なくなった。3)歩けるようになったので、自宅でもトイレに行けて、あまり迷惑がかからない。

昼食を食べた後、看護師に「退院したい」と申し出た。退院するには医師の許可がいる。この日、病院の医者は出払っているらしく、院長に電話で尋ねた末に、退院できることが決まった。整形外科の医師からは、痛みが引いたら、いつでも退院していいとお墨付きを得ていたのが大きかった。

家族は午後来ることになっていた。来るまでに、歩くことが出来たので、病院の中を散策して、状況を把握しようと努めた。3F建てで、1Fは診察室があり、2Fに入院患者がおり、3Fに食堂があるのが分かった。歩けるようになると、情報収集力が違う。

途中3Fの食堂で、コーヒーを飲んだ。久しぶりのコーヒーはおいしかった。病院食にコーヒーは出てこない。制約の後の自由は気持ちがいい。

昼下がり、家族に迎えに来てもらい、タクシーに乗って、自宅へ帰った。あとは自宅療養とした。ほとんど寝た状態で、立ち上がるのは、わずかな回数だけだった。この日は事務処理、メール処理だけ行った。大学に行くことはできなかった。

ぎっくり腰の顛末記(3)1日目 朝起きてから眠るまで

朝起きると、身体が痛くて、やはり動くことはできなかった。そもそも寝ている間も、寝返りをうつのすら痛かった。結局この日一日は、動くことができなかった。

寝起きに、看護師がやってきて、採血、検温、血圧、脈測定をされた。そのとき採血は非常にスムーズにいった。看護師は「この腕の血管に刺せなかったら、看護師を辞めなくてはいけない」と冗談で言っていた。僕の血管は運動しているから、普通の人よりも太く、針を刺しやすいのだ。ここで昨年、健康診断のときに、血管に刺せなかった人を思い出す。その人は失格になってしまう。

朝になり、薬と朝食が運ばれてきた。三種類の薬を1錠ずつ、計三錠を食後に飲む。薬の効能はよくわからないものの、言われたままに飲んだ。

この病院、ご飯はしっかりしていた。炭水化物、タンパク質、ビタミンなどの配分のバランスがよい。ただし、食べる量が結構多く、朝食には食パンが2枚出てきた。腰が動かず、立ち上がれなかったので、少しベッドの角度を上げて、首の位置を上に持ってきた。完全に仰向けの状態では、自分でご飯は食べられない。このとき実体験で、動かせるベッドのありがたみを知った。これはパラマウントベッドだった。

食べ終わった後は、病欠の連絡準備をし始めた。携帯電話から日本語のメールを先生宛に、英語のメールを研究室全体宛に送った。ぎっくり腰で入院すると連絡するのは、情けないものがあった。

頑張って仕事をしようと試みたけど、動く度に顔が歪んだ。またメールチェックをしようと思い立ったが、病院の中でインターネットは使えないようだった。看護師に聞いたところ「そういう難しいこと(インターネット)は分からない」という返答だった。結局、仕事はほとんど諦めて、治療に専念することとした。つまりよく寝ていた。

そうこうしている内に、午前中には、家族が来てくれ、入院の手続きをしてくれて、替えの服などを持ってきてくれた。家族のありがたみを再認識させられた。入院したとき、一人だけでは全く対処ができない。

隣のおじいちゃんたち、病気というよりも、介護が必要だから入院しているような感じだった。隣のおじいちゃんたちの面会には、家族の女性が訪れて、細々としたお世話をしていた。また看護師以外に介護士も日に5,6回はやってきていた。この辺の社会福祉の事情は、全く知らなかったので、よい社会勉強となった。

昼食の炭水化物はおにぎりだった。茶碗に盛られたご飯に比べ、おにぎりの方が動けない人にとって、食べやすい。退院するまで、食事の炭水化物はおにぎりだった。パンは初日の朝食だけだった。

午後になっても、結局、自分の足では動けなかった。そのためレントゲン室に向かう必要があったとき、再度ストレッチャーに載せられ、胸のレントゲンを撮った。胸は関係ないと僕は思ったが、いつも念のためにレントゲンを撮るようにしているそうだ。そして案の定、胸に異常はなかった。

ベッドから動けなかったので、整形外科のお医者さんがベッドにまで来てくれた。ここに来て、ぎっくり腰(医学名は他にある)という正式診断を得た。足と腰を持ち上げるときに痛みを感じ、膝を曲げるときは痛みはなく、腰を圧迫しても無痛という状態だった。

治療は主に安静にすることで、入院は1週間という診断だった。半ば慰めに、「急に治る人もいる」と言われたけど、一体いつまで寝ている必要があるのか、凄く不安になった。なにしろ、この日は火曜日で、金曜日に学会発表があるので、焦っていた。薬には、ツムラの漢方が出た。また治療を早めるために、手をパタパタさせる不思議な体操を教えてもらった。上半身を多少動かすと、骨髄液が腰にまで動いて、治療が早まるそうだ。1日5,6回体操して下さいと言われたので、その体操を10回はやった。

夕食は魚だった。これもベッドを持ち上げて、ゆっくりと箸を進めた。寝た状態で食べるのは、本当にこぼしやすい。腰が駄目になると、食事すらも困難になる。

1日立ち上がれず、トイレに行くことはできなかった。尿器を使った。そんな尿器文化は今の人生ではなかったので、革命的な出来事だった。

結局、この日はベッドから出られず、腰の改善もほとんど見られなかった。動ける日は本当にまた来るのか?暗澹とした気持ちになりつつ、眠りについた。

ぎっくり腰の顛末記(2)入院1日目 病院で寝て起きるまで

前回は救急車に乗って病院に運ばれるまでを書いた。今回は病院で寝て起きるまでを書く。

およそ夜の12時ぐらい、ストレッチャーに乗って、救急車を降りて、病院の前に着いた。入院するときは、いつもと違って、自分がどこにいて、どこに向かっているのか、状況が把握できなくなる。腰が持ち上がらず、周りの景色が見えないので、どこに着いたのか全く見当が付かなかった。

病院の外では、看護婦と当直の医師が出迎えた。直ぐにレントゲン室に運ばれ、骨の様子を見ることになった。このときレントゲンの撮影台に上るにも一苦労で、寝返りをうつときも痛みが走った。腰の正面と横から、1枚ずつレントゲンを撮った。撮影画像によると、骨には異常がないとのことだった。当直の医師は整形外科の専門医ではないため、詳しい診断はできないとのことだった。

レントゲン後は、再度ストレッチャーに乗って、病院のベッドに運びこまれ、人生初の入院となった。ここでも場所の状況が把握できなかった。起き上がって見通せず、何階の何号室にいて、どのような部屋であるかも、分からなかった。またベッドはカーテンで仕切られているので、隣にどんな人がいるのかも分からなかった。普段は分かるまで調べるのだが、今回ばかりは諦めた。

ベッドに寝た状態で、看護師にナースコール、部屋の電気、テレビの使い方、イヤホンの付け方や尿瓶の使い方を教えてもらった。ナースコールはベッド横のボタンを押すとできる。部屋の電気はスタンドと蛍光灯の2箇所、ON/OFFできる。テレビは添え付けのリモコンを使用する。テレビの音はイヤホンからしか出ない。尿意を催したときは尿器を使うこと、などが分かった。

最後に1日の尿と便の回数を詳しく聞かれた。また最後にトイレに行った時間も尋ねられた。これが後々重要になってくるとは、その時点では気がつかなかった。そして看護師は去っていった。

身体は死んでいるが、頭は動いており、何かやろうと試みた。しかし部屋は真っ暗、かつ隣の人も寝ているようで、1時には寝ることにした。

そこで寝付いたものの、午前3時、5時、6時には目が覚めた。なぜならその時間に、隣のおじいちゃんたち(声でおじいちゃんたちだと分かった)のベッドシーツやおむつを交換するために、看護師たちがドタバタ動き回っていたからだ。個室でなくて、多人数部屋だと、こういう気苦労があることに初めて気がついた。

起き上がってトイレに行けないので、途中、尿器を初めて使うこととなった。これは僕には向いていない。普段の姿勢でないのが一因と、完全な個室でないのがもう一因だ。尿器に関しては、看護婦が巡回して、内容量を確かめて、交換に回る。毎回、量と回数がチェックされて、表が作成される。これらの確認が定量的にされるのが、かなりのプレッシャーとなった。

そして朝7時を迎えた。
続く

2010年3月17日水曜日

ぎっくり腰の顛末記(1)救急車に乗るまで

月曜日の夜にぎっくり腰になった。事の起こりは、スポーツジムでデッドリフトと呼ばれるトレーニングをやっている最中のことだった。デッドリフトとはバーベルを持ち下げして、主に背筋を鍛えるトレーニングだ。本命の90 kgの重さで上げ下ろしをしたときは何も起きなかった。80 kgと負荷を下げても、何も起きない。60 kgまで下げて、まさに終わろうといときに、ぎくっとなった。

腰がくだけた。60 kgのバーベルは床に落ちて、立ちあがれなくなった。急に背中の筋肉がびくっとして、強制終了された。ぎっくり腰のぎっくり感、それは今までにない感覚だった。

ぎっくりしてからは、歩けなくなった。ここで床に落としたバーベルの片付けをすべきだろうと思い、バーベルをいつもの5倍の時間をかけて、なんとか元の位置に戻した。しかし、力があったのはそこまでだった。やはり背中に痛みがあり、痛くて立っていられない。

前屈みの姿勢で、とぼとぼとストレッチマットに向かった。ストレッチマットで寝ることは自然だ。そこで横たわって、休憩すれば、よくなるだろうと期待していた。初めての経験で、どういう時経過を経るか分からなかった。

10分待った。20分待った。しかし立ち上がろうと度に、背中に強い痛みが生じて、起き上がることができなかった。刻々と営業時間の終わりが迫っていた。周りにいたスポーツクラブの会員は、寝ているだけで痛がる姿を見て、いぶかしがっていたに違いない。

事故から30分経っても、改善が見られなかった。そしてスポーツクラブの従業員にレスキューを求めた。すると背中を冷やすための冷湿布を持ってきてくれた。湿布を背中にあてがって、回復を待った。

従業員の話では、ぎっくり腰になる人はよくスポーツクラブにいるという話だった。僕は見たことがないけど。またその従業員もぎっくり腰の経験者だそうだ。

回復を待つ間、従業員からは、2つの選択肢を提示された。
1)なんとか歩けるなら、タクシーで送ってもらって、自宅に帰る
2)歩けないなら、救急隊を呼んで、近くの病院に運んでもらう
営業時間が終わっていくなか、どちらかの選択を選ぶ必要があった。

希望は1)自宅に帰りたかったので、立ち上がることを4度、5度、試みた。そのたび、激痛がその意図を阻んだ。発生後1時間経って、立ち上がることすらできないため、ついに1)の選択肢を諦め、2)を選んだ。そして救急隊を呼んでもらった。

救急隊はスポーツクラブの中に入ってきて、3人がけで担架を使って、救急車まで僕を運んだ。途中、従業員専用の裏口を抜けた。ここはスポーツクラブの会員が通り抜けない秘密の出口で、建物の裏口に通じている。

建物の外では、裏口にも関わらず、10人以上の野次馬がいたのが分かった。救急車というだけで、見に来る人がいるんだよね。見られているのは、正直、恥ずかしかった。

救急車の中で、救急搬送先を決めた。連絡をして、搬送先はわりとすぐに決まった。自宅の近くから探していき、市内の病院になった。大した病状ではないから、たらい回しにされなかったんだろうと思う。これが重い病状だったらと思うと、ぞっとする。

そして救急車で、市内の病院まで運ばれた。

続く

2010年3月13日土曜日

インターネットで進める現代的な解約と契約

引越をするので、現在の住居のライフラインの解約手続きをした。2週間後に、契約が解除されるように、本日手続きを開始した。解約したのは以下の5つ。
  1. 電気:東京電力
  2. 水道:○○市水道
  3. ガス:東京ガス
  4. 電話回線:NTT
  5. プロバイダ:Yahoo! BB
これらの内、ほとんどがインターネットで解約手続きが出来る。インターネットを使うと、電話よりも必要な情報をスピーディーに入力できるので、結果的にスムーズに終わると思う。電話で住所や数字を伝えるのは、お互いにとって苦痛だ。

ところで上記の中でただ一つだけ、インターネットで手続きができないものがある。それはなんでしょう?

プロバイダのYahoo! BBだ。これだけ電話での解約になった。電話は混んでいて、つながるまで5分かかった。しかも電話をかけただけでは終わらない。書類が1週間かけて送付されて、その書類を記載後、返信してようやく解約になる。インターネットに一番長けているはずのYahoo! BBが、一番アナログなので困る。

NTTで回線の解約手続きをした数時間後、携帯電話に確認の電話がかかってきた。現代においても、インターネットの申し込みだけでは、解約は終わらないようだ。NTTのやり方が一般的だとすると、電気と水道とガスの件で、営業時間になった月曜日にまとめて、電話がかかってきそうだ。

契約に関しては、「フレッツ光の開通」と「ガスの開栓」だけ申し込んでおいた。これもインターネットから終わらせた。水道と電気はまた今度やる予定。これもインターネットを使って、すぐにできそうだ。

2010年3月8日月曜日

家の近くの蕎麦屋で食べた「カレイの煮付けセット」

日曜日の昼は外食に行くことが多い。今日は、雨が降っていたので、当初行く予定の店を変更して、家から歩いて2,3分で行ける蕎麦屋に行った。店内は僕を除くと、60~70代のおじさんが2組入っていただけだった。

僕は800円のカレイの煮付けセットを頼んだ。カレイとそばのクオリティは満足できた。ただメニューの写真ではせいろそばだったけど、なぜかたぬきそばが出てきた。

ご飯の量は想像よりも多かったので、半分ぐらい残してしまった。重労働をするわけではないので、炭水化物を取りすぎないように気を遣っている。今後は麺類を食べるときは、ご飯とのセットを頼まないようにしなければいけない。

2010年2月28日日曜日

こたつユニット交換ABC

こたつが壊れた
イトーヨーカ堂で購入したコタツが、4シーズン目の冬に、ウンともスンとも言わなくなった。電源を入れても、ファンとヒーターが動いていない。こたつのことはほとんど何も知らなかったが、これを直さないと、エンジニアとしてどうかと思った。

原因
とは言ったものの、原因追及は難しく、分からないまま終わった。なぜなら中身を開けて、ヒーターの悪い箇所を調べようとしたけど、ネジが取り外しにくく、分解が難しい設計になっていたからだ。もしかしてヒューズが切れてただけかもしれないが、分解できないので、原因が分からなかった。ヒーターを分解して直すのは諦めた。ちなみにこれはクレオ工業株式会社のNN8340という製品だった。

対策
手っ取り早く、動くようにするために、同じ製品を買って、ヒーターだけ交換しようと思った。それでヒーターの製造会社であるクレオ工業のウェブサイトを見た。ところが2010年2月の時点で、同じ型番の製品は販売されていなかった。似たようなヒーターで、違う型番の製品はあった。あとはサイズが合っているか分かれば、それを購入すればよかった。ここで問題があって、会社のウェブサイトには、ヒーターのサイズが明記されておらず、持っているコタツ机と合うか、分からなかった。またクレオ工業に電話して、確かめようとしたが、土曜日だったので、つながらなかった。

そこで違う会社の製品にも、視野を広げて調べてみた。メトロ電気工業のコタツヒーターMSF-500Hは、ウェブサイトにサイズがきちんと書いてあって、今の机にフィットすることが確認できた。なのでその製品を取り扱っているAmazonで発注して、3,580円で新しいコタツユニットを手に入れた。(コタツ机とヒーターのサイズを測ったあげくに、どうやらヒーターのサイズには規格が決まっていることが分かった。)

以前の壊れたユニットは不燃物として捨てて、新しいヒーターと交換した。必要なのは、現在の机とヒーターのサイズが合うか確かめること、ネジを回してユニットの取り外し・取り付けを行うことだ。こうして割と簡単にこたつは再生した。今のところ、ヒーターは順調に動いている。


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2010年2月27日土曜日

引越の手配あれこれ

はじめに
3月に引越をするのに、今週の火曜日2/23の時点で、どこの会社からも見積をとっていなかった。いい加減動き出さないと、荷詰めもままならず、交渉に不利になるため、業者に見積を依頼しようと思い立った。

まず基本的なことだが、単身用の引越では電話だけでも、見積を出してくれるが、家族用の引越だと、現場(我が家)を見た後でないと、見積を出してくれない、ことを知らなかった。家族引越は初めてだ。そして僕は家族引越なので、業者を家に呼ぶ必要があった。

それで実際に家まで、見に来てくれるように手配する必要があって、4社:日通、クロネコヤマト、アート引越センターとサカイ引越センターに引越の見積依頼を頼んだ。時間は以下のようになった。サカイは今週金曜日の早朝、クロネコヤマトとアート引越センターは日曜日の午前、日通は来週の火曜午前となった。すでに見積の予定が一杯で、日通はどうやらかなり忙しいらしい。

こうして4社に依頼して、見積りを出してもらう手配をした。しかし引越の相場感が分からず、高いのか低いのか不明だと、業者に手玉に取られる可能性がある。なので業者がやってくる前に、オンラインで相場を調べておいた。



オンライン見積を利用した相場調べ
アーク引越センターのオンライン見積があって、大体の相場が調べられる(http://www.0003.co.jp/)。これは業者の手の内を読むために、有効なので、パチパチ入力してみることをお薦めする。ここで入力する荷物の量を一定にして、日付のみ変更してみて、日付の与える影響を調べた。

すると2月の閑散期(2/19)と3月末(3/28)の繁忙期で2倍の価格差があった。オプション抜きで、15万円対30万円。また3月20日を分水嶺にして、価格は10万円高くなった。このことから分かるのは、3月20日以前に引っ越せば、10万円節約できるということ。サービスが同じだとして、たかが3,4日の差で、10万円が変わるなんてことは、日常生活ではあまりない。

この知識を元に、日程を再調整した。というのは、元々3月26日に引越をしようと思っていたが、その日に引越をする価値に、10万円はないと踏んだ。そして10万円を節約するために、3月16日の週に引っ越すことにした。

サカイ引越センターが見積りに来た
今日の早朝になって、見積を頼んでおいたサカイ引越センターの営業マンが現れた。一通り部屋の荷物を見て、「本が多いですね」と言った。本は約1000冊あるので、一般的な人とは違って、そういう印象を持つのは自然だ。他の電化製品や家具は極めて一般的なので、とくにコメントはなかった。

さて部屋の荷物を見て、引越内容を説明された後に、ようやく引越の価格を提示された。自分では最初の価格(約22万円)には納得できなかった。アーク引越センターの見積と同等ぐらいだったが、閑散期は15万円で運べることを考えると、ここからもっと安くなるのではないかと、感じた。

段階的に交渉して、値段を下げてもらった。価格は順に下がり、最初に提示してきた価格に比べて約7万円下がって、約15万円となった。これで自分でも納得できる金額に到達したので、そこで契約した。値下げ交渉のときに、営業マンが上司に電話で2回相談していた。これは担当の営業マンができる裁量の値引き幅を超えて、上司の値引きに突入したことを意味している。それを見て、まあこれ以上は安くならないだろうから、契約してもいいかな、という気になった。

あとは残りの3社に断りの電話を入れておいた。見積を取る前段階だったので、キャンセル自体は、簡単にできた。

1つの心残りは、もっと値引きできたかもしれない、ことだ。全ての会社から見積を取って、業者同士で競争させれば、さらに下げられる可能性があった。しかし自分がかける手間を考えると、これ以上他の会社とやりとりして得られる利益はあまりないように思った。本当は、日通が安いと聞いていたので、日通と競り合わせたかったが、見積を取りに来るのが遅いため、うまく比較することができなかった。それだけが悔いに残っている。

明日段ボールを50箱分、持ってきてくれるそうだ。明日からは箱詰に入る。

2010年2月23日火曜日

書類クエスト10の攻略状況

先週木曜日の夕方に、就職先の事務から書類を提出して下さいと依頼された。教員に採用されるにあたって、10種類の書類の提出が必要なのだった。僕の書類クエストがはじまった。

自分一人だけで埋められる書類は4つだけ。あとの6つは人の協力を得ないと、完成しない。先週の内に「協力が必要な6つの書類」を依頼しておいた。依頼に対して、処理が行われて、今週中には書類が全て整う手はずだ。

書類のなかで面倒くさかったトップ3は、1.健康診断書、2.身分証明書、3.(手書き)履歴書、である。
  1. 健康診断書は、医者の診断と検査が必要で、面倒くさかった。11月に健康診断を受診したのに、またやるのはげんなりする。それでも今回は大学の保健センターで受診したから、総合病院で受診するのに比べて、面倒くささは半減できた。大学の保健センターは、裏技だった。
  2. 身分証明書は本籍地の愛知県に請求した。中身に、200円分の定額小為替、返信封筒、80円切手を入れて、郵送した。なかでも面倒くさい主要因は定額小為替。これが手に入れにくい品物で、郵便局でしか売っていない。現金を入れられれば簡単なのにな。
  3. 履歴書は、小学校から、大学院まで手書きで書く。もちろん「○○入学」に続けて、「同上卒業」とは書けない。毎度思うが、このご時世に手書きの意味がよく分からない。2回書くのに失敗して、3回目にようやく間違えずに書き上げた。手書きにすると、時間と資源が勿体ない。誰が得をするのか不明な仕組みだ。
なんとか書類のクエストの内7つを攻略して、残るは3つのみとなった。あとは愛知県から配送される郵便が届くのを待てばいいだけで、楽なもんだ。最初に全体像を見渡して、人に手配したりするのが、もっとも大変だったか。さらにこれらの提出書類以外にも、処理が必要な書類が10以上ある。同時並行に処理して、頭のメモリがパンクしないのが不思議だ。

様々な敬称で呼ばれた一日: 先生、様、さん、くん

今日一日だけで、様々な敬称があることを改めて気づかされた。自分の敬称に、先生、様、さん、くんの全てが使用された。
  1. 就職先の大学事務の人と電話で話したら、「○○先生」と呼ばれたので、驚いた。まだ教員じゃないけど、すでに教員扱いになっていた。
  2. メールでは、「先生」「様」が使い分けられ、「○○様」になっていた。敬称には、教員以上には「先生」が、研究員には「様」が使われる。まだ研究員だから、「様」が使われるのは当然だ。
  3. 保健センターに行ったら、「○○さん」と呼ばれるようになった。医療機関は「さん」で呼ぶ慣習がある。
  4. 上司の教授と話していたら、「○○くん」と呼ばれた。上司が部下を呼ぶときは、それがしっくりくる。たとえ教員になっても、変わらないはず。
その人たちは、それぞれ最適な呼び方を選んだ結果が、先生、様、さん、くんの使い分けになった。立場が変わると、敬称の付け方が変わる。使い分けは、結構面倒くさい。例えば、・先生、・先輩、・同期、・後輩、・外部のお客さんを一度に呼びかけようとすると、大変だと思う。

2010年2月19日金曜日

新居を探して決めてきた

土日に愛知に舞い戻って、新居を決めてきた。自分の中で条件がはっきりしていたから、迷いはあまりなかった。その条件というのは、以下の3条件。

僕が重視した3条件
第1条件は、家賃。7~8万円以下がよい。
第2条件は、場所。栄えているところに住んで、利便性が高いエリアに住むのが大事にした条件だった。
第3条件は、建物の構造。鉄筋コンクリートが遮音性と耐震性の面から、好ましい。

見た物件は2件だけ
時間の都合もあって、見た物件は2件だけだった。1件は公共住宅で、もう1件は民間の住宅。どちらの物件も、家賃が7~8万円以下で、栄えている場所にあって、構造も鉄筋コンクリートで、部屋が2F以上にあるから、どちらも自分としては満足していた。

結局、公共住宅にした。決め手はやはり費用である。トータルの費用を考えたときに、公共住宅の方が安くつくという計算になった。民間の賃貸住宅は、仲介手数料と礼金と退去費用が発生して、意外に高くつく。公共住宅は、仲介手数料と礼金は払わなくてよい。また敷金もほとんど戻ってくるとのことだ。

部屋は70m2と広い。東京ではこんなに広い部屋を借りることは、お金がかかりすぎるため、現実的ではない。土地が安い愛知の利点である。また近くに生き物がたくさん生息しているがあるのも、生き物好きの僕にとっては、面白そうな場所だ。

車の憂鬱
大学までは車で通うことになりそう。なので、車を手に入れる必要があって、今は車について勉強中。し・か・し・車にかかる税金と保険料の高さは知らなかった。税金と保険料を合わせると、1年で10万円近くかかることに、驚いている。車の必要度が高いのが、愛知の欠点かな。土地が安くて、駐車場は東京よりもはるかに安いことが救いである。

2010年2月13日土曜日

「ナンバーが、足りない」

大学の電話番号が足りない。1部屋、約20人いる研究室に電話番号が1つしかない。昔にいた研究室にいたっては、40人で1つの電話番号の割り当てだった。これって非効率だと思う。2例あげます。

例1: たとえば、金曜日のお昼、日本語話者が僕しかいない状況はピンチだった、日本語対応できる人が僕だけだから、僕が全員分の電話を取るはめになった。外国人は日本語の電話をとっても、要件が聞き取れないので、結局自分が対応することになる。そして外国人宛の英語の電話でも、僕を含む日本人がとることになってしまった。

例2: また部屋に電話をとれる人が3,4人いてもよくない。みんなが作業を止めてとりにかかってしまうから。1本の電話が1人ではなくて、複数の人に影響を及ぼす。これも大きい部屋に1つだけの電話のデメリット。

というわけで、理想は1人1つの電話番号だと思うよ。それで、席を外している人の電話は放置してもいい。大学にお金がないことを鑑みても、現実的には、4,5人に1つ割り当てて頂けるとうれしい。今の状況はなんとか改善したい。しかし、僕自身はタコ部屋から脱出するため、問題が自分の前からは消滅する。こうして「ナンバーが、足りない」問題が解決されずに、放置されていくもんなんだな。

2010年2月10日水曜日

人の実験室で相撲をとる

実験室にある「みんなのロッカー」の片付けで言っていたが、実験室拡張のため、実験室が1ヶ月強使えなくなるために、違う建物の実験室を使わせてもらうことになった。

まず今日は、実験室のルール、装置や試薬の使い方を含めて、約1時間かけて説明してもらった。覚える量は膨大で、完全には覚えていない。ここでBlogを書いて、記憶を強固にしようとしている。また実際に動く段になると、いつもと勝手が違い、倍以上時間がかかると思う。

基本的なシステムは今まで使っていた実験室と同じだったが、今回使わせてもらうことになった実験室は、全般的に装置が最新のものが用意されている。去年の4月から新しく稼働した場所で、新型の装置を多数導入したからだろう。何が新しいかというと、メカニカルに自分で動かす部分が減って、電子制御で駆動する部分が増えていた。電子制御は、技術の潮流なんだろうか。

来週以降は新しい実験室で実験をして、徐々に装置やルールに慣れていきたい。3月末で大学を移るというのに、この期に及んで新しい環境で実験を始めるのは、不思議な感じがする。

実験室にある「みんなのロッカー」の片付け

今日の午後に、実験室の引っ越しと掃除を始めた。これは今いる実験室の拡張を行うために、一時的に荷物を移動させるためだ。前半の僕の担当は、個人用ロッカーの所有物を外に出して、空にすることだった。ロッカーは3列 x 5棚 x 2つで、30人分あった。

事前の告知があったのだけれど、連絡が不徹底だったのか、29/30には所有物が残っていた。また卒業生の人が置きっぱなしにしたものもあった。今回、本人たちがやるべき仕事を、僕が代行してあげた形だ。ちなみに僕の分は、掃除の2日前に片付けておいたので、大きい顔をしていられる。

さてロッカーに何が残っていたかというと、実験服と靴が主で、実験用試料が続き、実験用小物がぱらぱらとあった。
  • 黄色い実験服。実験服を洗わない人はすごくて、白の服が完全に黄色に変色していた。
  • 黒い実験靴。靴も数年使って1度も洗っていないのか、真っ白の靴が黒くなって、ロッカーに入っていた。
  • 共用のストップウォッチや実験器具。服の間にしまい込まれて、放置して卒業した人もいた。
  • もう使わないであろう空の容器。それを溜め込んでいる人も数人いた。
明らかに不要なものは捨てたが、重要そうなものは、個々人のオフィスの机の上に置いておいた。ロッカーを公的に開ける機会は滅多になく、なかなかに面白い体験となった。

2010年2月7日日曜日

After "Life After MIT"

MITから帰ってきた直後は慌ただしくて、Blogのタイトルを考えている暇がなかった。そして安直にBlogのタイトルを、「Life After MIT」としてしまった。その直後は内実が合っていたものの、年月が立つ内に、だんだんとBlogのタイトルと中身が合わなくなってきた
  • 1) MITに行っていた事実は1年以上前のことで、現在MIT絡みのNEWSはほとんどない。
  • 2) 東京生活も終わりに近く、2ヶ月後には愛知生活の話になる。
Life After MITもよかったんだけど、もう少しMITから離れたタイトルをつけたい。なので近いうちにBlogのタイトルを変更する予定だ。

2010年2月6日土曜日

RC構造と都市ガスのありがたみを知る

東京に来るとき、建物の構造やガスの種類は何も考えていなかった。だが偶然、RC構造で都市ガスの物件に住んだ。これがよかったらしい。

まずRC構造は壁が分厚いからか、近隣の生活音が伝わりにくくて、静かだ。隣り部屋の人の声はまず聞こえない。そして上層階の物音も聞こえたことがない。真下の階の人に聞いてみても、その人たちは、僕の生活音をうるさいと思ったことがないとのこと。

またガスは、プロパンガスなら都市ガスの倍ぐらいコストがかかるようだ。都市ガスを選んだのは、お得な選択肢だったみたい。(参考:東京ガスの料金比較 http://home.tokyo-gas.co.jp/chg/ryoukin.html)

ということで、次回も今回の物件の良さを引き継ぎ、RC構造かつ都市ガスの物件を探す。家賃が安い物件でも、プロパンガスだったら、光熱費で逆転現象が起きるかもしれないので、注意が必要だと思った。家賃を部分最適にするのは簡単だが、かかる費用全体を最適にする必要がある。

2010年2月5日金曜日

ソフトウェア敗戦を体感する

生協にソフトウェアカタログというものがあって、研究室で使いそうなソフトウェアの一覧が載っている。そこにはほとんど日本製のソフトはなく、日本のソフトウェアの弱さを体感できる。

OSに始まり、ワープロソフト、表計算ソフト、CAD、統計処理、画像処理、コンパイラはアメリカ製。日本製のソフトで使いそうなのは、一太郎、ATOKぐらい。結局アメリカのソフトウェアを買うことになる。おまけに同じソフトでも日本の価格は、アメリカの価格よりも2~3倍する。日本人はぼったくられてると思う。

そしてアメリカにソフトで負ける状況は続いていく。なぜなら現在の教育システムでは、ソフトウェアよりもハードウェアを重視するようになっているから。あともう2世代ぐらい入れ替わったら、ソフトウェアの重要性が分かる人が社会の上層部にいき、教育も変わってくるのかな?と思う。

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