2010年3月30日火曜日

ぎっくり腰の顛末記(6)全快

ぎっくり腰に関しては、1週間経つと、痛みをほとんど感じなくなった。日常生活以外の運動は止めて、休養につとめた。痛みを感じる場面は、長時間同じ姿勢で座った後に、立ち上がるときだけだった。電車で30分座った後に、立ち上がると、腰が痛くて、吊革を持たないと姿勢が維持できなかった。

現在2週間経ち、痛みも違和感も全くなくなり、全快したことを感じている。当面は腰に気を遣いながら、有酸素運動を行う予定で、徐々に運動強度を高めていきたい。ただ引っ越してきて間がないため、どこで運動をしていいのか、今は見当が付かないが。

愛知に引越して、新生活のスタートを切る

3月27日に東京を離れ、愛知に引っ越した。実家が愛知なので、また愛知!という思いがある。

東京では、計3年8ヶ月[4年-4ヶ月(ボストンにいた)]生活した。あの密集生活はいい経験になった。利便性は高いものの、人口密度が高いせいで、ある種の息苦しさがあったのは否めない。一人当たりの面積は少なく、競争は激しく、生き馬の目を抜くように生活してきた。

久しぶりの愛知は、ゆったりとしているような感じを受けた。東京の経験を踏まえつつ、愛知と東京を対比させることで、見えてくるものもある。


さて今は月・火・水と有給を取って、次の生活の準備をしている。引越して3日目を迎え、同時進行のプロセスが減って、複雑度が減ってきた。ようやく事態は沈静化してきた。


これまでに生活面では退去、引越、入居があった。仕事面でも学会発表や会議の準備があった。小さいことでも、確認の連絡や日程調整の連絡が来て、仕事は中断された。さらに同時進行に数十のプロセスが進み、頭のメモリがそれらを把握することに使われた。そうなると腰を据え、集中して研究をすることができなくなった。やはり落ち着いていないと、まとまった一塊の研究ができない、と思いを新たにした。


4月1日から次の職場で働き始める。今後は再度落ち着いて、まとまった研究をやりたい。今後3~5年以内に、まとまった仕事を世の中に提案したいものだ。

2010年3月22日月曜日

ぎっくり腰の顛末記(5)退院後以降の回復

入院2日目に、なんとか歩ける状態で退院してきた。僕の場合、歩く速さは以下のように回復した。 通常通りの速さで歩けるまで、1週間ぐらいかかるようだ。ぎっくり腰はすぐには治らない。

歩く速さ推移
  • 1日目(火):0%
  • 2日目(水):10%
  • 3日目(木):20%
  • 4日目(金):50%
  • 5日目(土):80%
  • 6日目(日):90%
詳しい病状経過
3日目
近所の回転寿司まで、いつもの5倍遅いスピードで歩いた。併走する高齢の方にも抜かれていく始末だった。遅いけれど、数百メートルの歩行ができて嬉しかった。
 
4日目
学会発表をするために、電車に乗って、都内まで出かけた。発表を2件やり、質問を5つほどして、帰った。立っている状態、座っている状態、続けるだけなら、あまり苦にならなくなった。しかしこの状態でも、道で歩く人よりも歩行が遅かった。朝、忙しそうに動く人たちに、どんどん追い抜かれた。夜は自転車にも乗ってみた。シティサイクルなら、腰に負荷がなかったので、普通に乗れた。
 
5日目
1キロ以上歩き、歩行速度は通常とほとんど変わらなくなった。状態はかなり楽になった。 階段を上り下りするときに、腰に緊張感みたいなものがあってとれない。
 
6日目
事務処理をしに、大学の研究室へ向かった。軽い荷物を運べるようになって、軽く走れるようにもなった。しかし重い荷物を運ぶのは無理みたいだ。腰に負担があるようで、腰にヒビが入る感覚を覚える。電車の網棚のものをとるときには痛みがある。姿勢も大事のようだ。

そして今現在、7日目の朝だが、大きな不調はなさそうだ。重い荷物を持つのを避ければ、ほとんど日常と変わらない生活が送れそうになっている。

ぎっくり腰の顛末記も5話目になった。そろそろ最終回かな。

2010年3月20日土曜日

ぎっくり腰の顛末記(4)入院2日目 急激に病状が回復し、退院に至る

入院2日目(水曜日)になって、劇的な改善があった。途中、立ち上がろうとするときには、強い痛みが走るものの、かなり痛みが引いた。そして歩いてトイレに行けるまでになった。こうなるとかなり通常の生活に近づいてくる。だが立ち続けるのは、依然つらかった。

回復力はかなり早い方だと思われる。腰が弱っても、違う部分の強い筋力が、腰をサポートして動き回れた、と推測している。

退院したいと思い立った。その理由は3つ。1)自宅でインターネットに接続して、仕事を再開したい。2)入院費もかかっているはずで、できるだけ早く退院した方が医療費を節約したい。病院の利点は、動けない患者をサポートできる点にあった。今は動けない人へのサポートも必要なくなった。3)歩けるようになったので、自宅でもトイレに行けて、あまり迷惑がかからない。

昼食を食べた後、看護師に「退院したい」と申し出た。退院するには医師の許可がいる。この日、病院の医者は出払っているらしく、院長に電話で尋ねた末に、退院できることが決まった。整形外科の医師からは、痛みが引いたら、いつでも退院していいとお墨付きを得ていたのが大きかった。

家族は午後来ることになっていた。来るまでに、歩くことが出来たので、病院の中を散策して、状況を把握しようと努めた。3F建てで、1Fは診察室があり、2Fに入院患者がおり、3Fに食堂があるのが分かった。歩けるようになると、情報収集力が違う。

途中3Fの食堂で、コーヒーを飲んだ。久しぶりのコーヒーはおいしかった。病院食にコーヒーは出てこない。制約の後の自由は気持ちがいい。

昼下がり、家族に迎えに来てもらい、タクシーに乗って、自宅へ帰った。あとは自宅療養とした。ほとんど寝た状態で、立ち上がるのは、わずかな回数だけだった。この日は事務処理、メール処理だけ行った。大学に行くことはできなかった。

ぎっくり腰の顛末記(3)1日目 朝起きてから眠るまで

朝起きると、身体が痛くて、やはり動くことはできなかった。そもそも寝ている間も、寝返りをうつのすら痛かった。結局この日一日は、動くことができなかった。

寝起きに、看護師がやってきて、採血、検温、血圧、脈測定をされた。そのとき採血は非常にスムーズにいった。看護師は「この腕の血管に刺せなかったら、看護師を辞めなくてはいけない」と冗談で言っていた。僕の血管は運動しているから、普通の人よりも太く、針を刺しやすいのだ。ここで昨年、健康診断のときに、血管に刺せなかった人を思い出す。その人は失格になってしまう。

朝になり、薬と朝食が運ばれてきた。三種類の薬を1錠ずつ、計三錠を食後に飲む。薬の効能はよくわからないものの、言われたままに飲んだ。

この病院、ご飯はしっかりしていた。炭水化物、タンパク質、ビタミンなどの配分のバランスがよい。ただし、食べる量が結構多く、朝食には食パンが2枚出てきた。腰が動かず、立ち上がれなかったので、少しベッドの角度を上げて、首の位置を上に持ってきた。完全に仰向けの状態では、自分でご飯は食べられない。このとき実体験で、動かせるベッドのありがたみを知った。これはパラマウントベッドだった。

食べ終わった後は、病欠の連絡準備をし始めた。携帯電話から日本語のメールを先生宛に、英語のメールを研究室全体宛に送った。ぎっくり腰で入院すると連絡するのは、情けないものがあった。

頑張って仕事をしようと試みたけど、動く度に顔が歪んだ。またメールチェックをしようと思い立ったが、病院の中でインターネットは使えないようだった。看護師に聞いたところ「そういう難しいこと(インターネット)は分からない」という返答だった。結局、仕事はほとんど諦めて、治療に専念することとした。つまりよく寝ていた。

そうこうしている内に、午前中には、家族が来てくれ、入院の手続きをしてくれて、替えの服などを持ってきてくれた。家族のありがたみを再認識させられた。入院したとき、一人だけでは全く対処ができない。

隣のおじいちゃんたち、病気というよりも、介護が必要だから入院しているような感じだった。隣のおじいちゃんたちの面会には、家族の女性が訪れて、細々としたお世話をしていた。また看護師以外に介護士も日に5,6回はやってきていた。この辺の社会福祉の事情は、全く知らなかったので、よい社会勉強となった。

昼食の炭水化物はおにぎりだった。茶碗に盛られたご飯に比べ、おにぎりの方が動けない人にとって、食べやすい。退院するまで、食事の炭水化物はおにぎりだった。パンは初日の朝食だけだった。

午後になっても、結局、自分の足では動けなかった。そのためレントゲン室に向かう必要があったとき、再度ストレッチャーに載せられ、胸のレントゲンを撮った。胸は関係ないと僕は思ったが、いつも念のためにレントゲンを撮るようにしているそうだ。そして案の定、胸に異常はなかった。

ベッドから動けなかったので、整形外科のお医者さんがベッドにまで来てくれた。ここに来て、ぎっくり腰(医学名は他にある)という正式診断を得た。足と腰を持ち上げるときに痛みを感じ、膝を曲げるときは痛みはなく、腰を圧迫しても無痛という状態だった。

治療は主に安静にすることで、入院は1週間という診断だった。半ば慰めに、「急に治る人もいる」と言われたけど、一体いつまで寝ている必要があるのか、凄く不安になった。なにしろ、この日は火曜日で、金曜日に学会発表があるので、焦っていた。薬には、ツムラの漢方が出た。また治療を早めるために、手をパタパタさせる不思議な体操を教えてもらった。上半身を多少動かすと、骨髄液が腰にまで動いて、治療が早まるそうだ。1日5,6回体操して下さいと言われたので、その体操を10回はやった。

夕食は魚だった。これもベッドを持ち上げて、ゆっくりと箸を進めた。寝た状態で食べるのは、本当にこぼしやすい。腰が駄目になると、食事すらも困難になる。

1日立ち上がれず、トイレに行くことはできなかった。尿器を使った。そんな尿器文化は今の人生ではなかったので、革命的な出来事だった。

結局、この日はベッドから出られず、腰の改善もほとんど見られなかった。動ける日は本当にまた来るのか?暗澹とした気持ちになりつつ、眠りについた。

ぎっくり腰の顛末記(2)入院1日目 病院で寝て起きるまで

前回は救急車に乗って病院に運ばれるまでを書いた。今回は病院で寝て起きるまでを書く。

およそ夜の12時ぐらい、ストレッチャーに乗って、救急車を降りて、病院の前に着いた。入院するときは、いつもと違って、自分がどこにいて、どこに向かっているのか、状況が把握できなくなる。腰が持ち上がらず、周りの景色が見えないので、どこに着いたのか全く見当が付かなかった。

病院の外では、看護婦と当直の医師が出迎えた。直ぐにレントゲン室に運ばれ、骨の様子を見ることになった。このときレントゲンの撮影台に上るにも一苦労で、寝返りをうつときも痛みが走った。腰の正面と横から、1枚ずつレントゲンを撮った。撮影画像によると、骨には異常がないとのことだった。当直の医師は整形外科の専門医ではないため、詳しい診断はできないとのことだった。

レントゲン後は、再度ストレッチャーに乗って、病院のベッドに運びこまれ、人生初の入院となった。ここでも場所の状況が把握できなかった。起き上がって見通せず、何階の何号室にいて、どのような部屋であるかも、分からなかった。またベッドはカーテンで仕切られているので、隣にどんな人がいるのかも分からなかった。普段は分かるまで調べるのだが、今回ばかりは諦めた。

ベッドに寝た状態で、看護師にナースコール、部屋の電気、テレビの使い方、イヤホンの付け方や尿瓶の使い方を教えてもらった。ナースコールはベッド横のボタンを押すとできる。部屋の電気はスタンドと蛍光灯の2箇所、ON/OFFできる。テレビは添え付けのリモコンを使用する。テレビの音はイヤホンからしか出ない。尿意を催したときは尿器を使うこと、などが分かった。

最後に1日の尿と便の回数を詳しく聞かれた。また最後にトイレに行った時間も尋ねられた。これが後々重要になってくるとは、その時点では気がつかなかった。そして看護師は去っていった。

身体は死んでいるが、頭は動いており、何かやろうと試みた。しかし部屋は真っ暗、かつ隣の人も寝ているようで、1時には寝ることにした。

そこで寝付いたものの、午前3時、5時、6時には目が覚めた。なぜならその時間に、隣のおじいちゃんたち(声でおじいちゃんたちだと分かった)のベッドシーツやおむつを交換するために、看護師たちがドタバタ動き回っていたからだ。個室でなくて、多人数部屋だと、こういう気苦労があることに初めて気がついた。

起き上がってトイレに行けないので、途中、尿器を初めて使うこととなった。これは僕には向いていない。普段の姿勢でないのが一因と、完全な個室でないのがもう一因だ。尿器に関しては、看護婦が巡回して、内容量を確かめて、交換に回る。毎回、量と回数がチェックされて、表が作成される。これらの確認が定量的にされるのが、かなりのプレッシャーとなった。

そして朝7時を迎えた。
続く

2010年3月17日水曜日

ぎっくり腰の顛末記(1)救急車に乗るまで

月曜日の夜にぎっくり腰になった。事の起こりは、スポーツジムでデッドリフトと呼ばれるトレーニングをやっている最中のことだった。デッドリフトとはバーベルを持ち下げして、主に背筋を鍛えるトレーニングだ。本命の90 kgの重さで上げ下ろしをしたときは何も起きなかった。80 kgと負荷を下げても、何も起きない。60 kgまで下げて、まさに終わろうといときに、ぎくっとなった。

腰がくだけた。60 kgのバーベルは床に落ちて、立ちあがれなくなった。急に背中の筋肉がびくっとして、強制終了された。ぎっくり腰のぎっくり感、それは今までにない感覚だった。

ぎっくりしてからは、歩けなくなった。ここで床に落としたバーベルの片付けをすべきだろうと思い、バーベルをいつもの5倍の時間をかけて、なんとか元の位置に戻した。しかし、力があったのはそこまでだった。やはり背中に痛みがあり、痛くて立っていられない。

前屈みの姿勢で、とぼとぼとストレッチマットに向かった。ストレッチマットで寝ることは自然だ。そこで横たわって、休憩すれば、よくなるだろうと期待していた。初めての経験で、どういう時経過を経るか分からなかった。

10分待った。20分待った。しかし立ち上がろうと度に、背中に強い痛みが生じて、起き上がることができなかった。刻々と営業時間の終わりが迫っていた。周りにいたスポーツクラブの会員は、寝ているだけで痛がる姿を見て、いぶかしがっていたに違いない。

事故から30分経っても、改善が見られなかった。そしてスポーツクラブの従業員にレスキューを求めた。すると背中を冷やすための冷湿布を持ってきてくれた。湿布を背中にあてがって、回復を待った。

従業員の話では、ぎっくり腰になる人はよくスポーツクラブにいるという話だった。僕は見たことがないけど。またその従業員もぎっくり腰の経験者だそうだ。

回復を待つ間、従業員からは、2つの選択肢を提示された。
1)なんとか歩けるなら、タクシーで送ってもらって、自宅に帰る
2)歩けないなら、救急隊を呼んで、近くの病院に運んでもらう
営業時間が終わっていくなか、どちらかの選択を選ぶ必要があった。

希望は1)自宅に帰りたかったので、立ち上がることを4度、5度、試みた。そのたび、激痛がその意図を阻んだ。発生後1時間経って、立ち上がることすらできないため、ついに1)の選択肢を諦め、2)を選んだ。そして救急隊を呼んでもらった。

救急隊はスポーツクラブの中に入ってきて、3人がけで担架を使って、救急車まで僕を運んだ。途中、従業員専用の裏口を抜けた。ここはスポーツクラブの会員が通り抜けない秘密の出口で、建物の裏口に通じている。

建物の外では、裏口にも関わらず、10人以上の野次馬がいたのが分かった。救急車というだけで、見に来る人がいるんだよね。見られているのは、正直、恥ずかしかった。

救急車の中で、救急搬送先を決めた。連絡をして、搬送先はわりとすぐに決まった。自宅の近くから探していき、市内の病院になった。大した病状ではないから、たらい回しにされなかったんだろうと思う。これが重い病状だったらと思うと、ぞっとする。

そして救急車で、市内の病院まで運ばれた。

続く

2010年3月13日土曜日

インターネットで進める現代的な解約と契約

引越をするので、現在の住居のライフラインの解約手続きをした。2週間後に、契約が解除されるように、本日手続きを開始した。解約したのは以下の5つ。
  1. 電気:東京電力
  2. 水道:○○市水道
  3. ガス:東京ガス
  4. 電話回線:NTT
  5. プロバイダ:Yahoo! BB
これらの内、ほとんどがインターネットで解約手続きが出来る。インターネットを使うと、電話よりも必要な情報をスピーディーに入力できるので、結果的にスムーズに終わると思う。電話で住所や数字を伝えるのは、お互いにとって苦痛だ。

ところで上記の中でただ一つだけ、インターネットで手続きができないものがある。それはなんでしょう?

プロバイダのYahoo! BBだ。これだけ電話での解約になった。電話は混んでいて、つながるまで5分かかった。しかも電話をかけただけでは終わらない。書類が1週間かけて送付されて、その書類を記載後、返信してようやく解約になる。インターネットに一番長けているはずのYahoo! BBが、一番アナログなので困る。

NTTで回線の解約手続きをした数時間後、携帯電話に確認の電話がかかってきた。現代においても、インターネットの申し込みだけでは、解約は終わらないようだ。NTTのやり方が一般的だとすると、電気と水道とガスの件で、営業時間になった月曜日にまとめて、電話がかかってきそうだ。

契約に関しては、「フレッツ光の開通」と「ガスの開栓」だけ申し込んでおいた。これもインターネットから終わらせた。水道と電気はまた今度やる予定。これもインターネットを使って、すぐにできそうだ。

2010年3月8日月曜日

家の近くの蕎麦屋で食べた「カレイの煮付けセット」

日曜日の昼は外食に行くことが多い。今日は、雨が降っていたので、当初行く予定の店を変更して、家から歩いて2,3分で行ける蕎麦屋に行った。店内は僕を除くと、60~70代のおじさんが2組入っていただけだった。

僕は800円のカレイの煮付けセットを頼んだ。カレイとそばのクオリティは満足できた。ただメニューの写真ではせいろそばだったけど、なぜかたぬきそばが出てきた。

ご飯の量は想像よりも多かったので、半分ぐらい残してしまった。重労働をするわけではないので、炭水化物を取りすぎないように気を遣っている。今後は麺類を食べるときは、ご飯とのセットを頼まないようにしなければいけない。
 
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