2010年3月20日土曜日

ぎっくり腰の顛末記(3)1日目 朝起きてから眠るまで

朝起きると、身体が痛くて、やはり動くことはできなかった。そもそも寝ている間も、寝返りをうつのすら痛かった。結局この日一日は、動くことができなかった。

寝起きに、看護師がやってきて、採血、検温、血圧、脈測定をされた。そのとき採血は非常にスムーズにいった。看護師は「この腕の血管に刺せなかったら、看護師を辞めなくてはいけない」と冗談で言っていた。僕の血管は運動しているから、普通の人よりも太く、針を刺しやすいのだ。ここで昨年、健康診断のときに、血管に刺せなかった人を思い出す。その人は失格になってしまう。

朝になり、薬と朝食が運ばれてきた。三種類の薬を1錠ずつ、計三錠を食後に飲む。薬の効能はよくわからないものの、言われたままに飲んだ。

この病院、ご飯はしっかりしていた。炭水化物、タンパク質、ビタミンなどの配分のバランスがよい。ただし、食べる量が結構多く、朝食には食パンが2枚出てきた。腰が動かず、立ち上がれなかったので、少しベッドの角度を上げて、首の位置を上に持ってきた。完全に仰向けの状態では、自分でご飯は食べられない。このとき実体験で、動かせるベッドのありがたみを知った。これはパラマウントベッドだった。

食べ終わった後は、病欠の連絡準備をし始めた。携帯電話から日本語のメールを先生宛に、英語のメールを研究室全体宛に送った。ぎっくり腰で入院すると連絡するのは、情けないものがあった。

頑張って仕事をしようと試みたけど、動く度に顔が歪んだ。またメールチェックをしようと思い立ったが、病院の中でインターネットは使えないようだった。看護師に聞いたところ「そういう難しいこと(インターネット)は分からない」という返答だった。結局、仕事はほとんど諦めて、治療に専念することとした。つまりよく寝ていた。

そうこうしている内に、午前中には、家族が来てくれ、入院の手続きをしてくれて、替えの服などを持ってきてくれた。家族のありがたみを再認識させられた。入院したとき、一人だけでは全く対処ができない。

隣のおじいちゃんたち、病気というよりも、介護が必要だから入院しているような感じだった。隣のおじいちゃんたちの面会には、家族の女性が訪れて、細々としたお世話をしていた。また看護師以外に介護士も日に5,6回はやってきていた。この辺の社会福祉の事情は、全く知らなかったので、よい社会勉強となった。

昼食の炭水化物はおにぎりだった。茶碗に盛られたご飯に比べ、おにぎりの方が動けない人にとって、食べやすい。退院するまで、食事の炭水化物はおにぎりだった。パンは初日の朝食だけだった。

午後になっても、結局、自分の足では動けなかった。そのためレントゲン室に向かう必要があったとき、再度ストレッチャーに載せられ、胸のレントゲンを撮った。胸は関係ないと僕は思ったが、いつも念のためにレントゲンを撮るようにしているそうだ。そして案の定、胸に異常はなかった。

ベッドから動けなかったので、整形外科のお医者さんがベッドにまで来てくれた。ここに来て、ぎっくり腰(医学名は他にある)という正式診断を得た。足と腰を持ち上げるときに痛みを感じ、膝を曲げるときは痛みはなく、腰を圧迫しても無痛という状態だった。

治療は主に安静にすることで、入院は1週間という診断だった。半ば慰めに、「急に治る人もいる」と言われたけど、一体いつまで寝ている必要があるのか、凄く不安になった。なにしろ、この日は火曜日で、金曜日に学会発表があるので、焦っていた。薬には、ツムラの漢方が出た。また治療を早めるために、手をパタパタさせる不思議な体操を教えてもらった。上半身を多少動かすと、骨髄液が腰にまで動いて、治療が早まるそうだ。1日5,6回体操して下さいと言われたので、その体操を10回はやった。

夕食は魚だった。これもベッドを持ち上げて、ゆっくりと箸を進めた。寝た状態で食べるのは、本当にこぼしやすい。腰が駄目になると、食事すらも困難になる。

1日立ち上がれず、トイレに行くことはできなかった。尿器を使った。そんな尿器文化は今の人生ではなかったので、革命的な出来事だった。

結局、この日はベッドから出られず、腰の改善もほとんど見られなかった。動ける日は本当にまた来るのか?暗澹とした気持ちになりつつ、眠りについた。

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